国際学概論

青年海外協力隊 帰国退院


私は当校の卒業生であり、卒業後、県内病院の急性期病棟で看護師として働いた後、JICA事業の一部である青年海外協力隊として2年間パラグアイ共和国へ派遣、2012年9月に帰国しました。

パラグアイ共和国は南米のおへそと言われ、アルゼンチンやブラジルに囲まれた南米の中心部にある内陸国です。日本からは飛行機を2度乗り継いで約30時間。緯度的にはちょうど沖縄の地球の裏側になっています。国土は日本の約1.1倍とほぼ同じなのですが、人口は約635万人と、日本の千葉県の人口と同じくらいで、広大な大地に人々がゆったりと生活しています。四季がありますが亜熱帯気候で一年を通して暑い日が多いです。

牧畜業、農業が主な産業であり、大豆や胡麻は日本にも輸出されています。2011年東北大震災の際は、パラグアイに住む日系人が中心となり、被災地へ10万丁の豆腐を届けるプロジェクトが立ち上がりました。国際協力が一方的なものではなく、両国が支え合って行われているということを実感しました。

母国語であるグアラニー語とスペイン語が公用語として使われています。私は派遣前訓練と現地においてスペイン語を約2ヶ月半勉強させてもらいました。

私が活動していたのは首都アスンシオンから約250km離れた農村、カアサパ県ブエナビスタ市というところでした。2年間、パラグアイ人の家庭にホームステイしながら、保健センターに通勤し活動しました。人口7000人の小さな市には私の配属先である保健センターの他に、保健ポストという更に小さな施設が1つ、合わせて2つの保健医療施設が存在しました。

国民は無料で公的保健施設を利用することが出来ます。基本的な医薬品も無料です。基本的な医療サービス充実のための国策がとられてはいましたが、資金、体制不足によりサービスが十分に稼働しておらず、従事者への賃金未払いも見られました。

首都のアスンシオンは交通網がある程度整っており、高層ビルや高級デパートもある一方、田舎では土道が広がり、牛や馬を使っての移動も多く、貧富の差は歴然です。私の住んでいる地域でも雨の日には土道が泥になり、病院へ到着する手段も限られます。雨の日は学校も休みになります。下水道が整わず、井戸水を使いトイレ設備が不十分、家屋の床は土のまま、といった家も一部、まだ見られました。

内陸国であり魚は入手しにくく、肉料理がメインとなっていました。塩、油を多用した料理が多いです。十分な収入の得られない家庭では食料が獲得できず、栄養バランスの偏り、失調も見られました。低体重妊産婦、乳幼児には粉末ミルクが無料で配られていました。 

活動していた保健センターでは一般診療、歯科、産婦人科、救急外来といった最低限の設備のある病院部門と、予防接種、家族計画、乳幼児健診、地域巡回等の保健部門を兼ね備えていました。患者には高血圧、肥満、高脂血症がとても多く、小児の呼吸器疾患、寄生虫も多かったです。

補助看護師の技術、知識向上と住民の衛生観念の定着、健康教育の促進を目標に活動をすすめていきました。パラグアイでは看護師の国家試験がなく、看護学校・大学を出れば資格として認められていましたが、学校により教育内容の差が大きく、看護師個々のレベルにも大差が見られます。他に地域住民の健康・疾病への知識不足、衛生観念についても改善の余地が見られました。

日々の看護業務、保健事業を手伝いながら看護技術を示し、助言していきましたが、信頼関係が不十分な活動初期は、助言を否定されたり仲間として認められず思い悩み、失敗も多々ありました。しかしその中でパラグアイの風土や宗教、文化を尊重した態度で接する事、また看護技術についても同様に、押し付けるのではなく向こうの看護を認めた上で改善できる部分を一緒に考えてきました。保健センター内の設備は日本と比べると機器も物品も少なく、整理整頓、清潔不潔の意識も異なり、5Sを意識し介入していきました。医療廃棄物を含むゴミの分別推進や、他のボランティアのアイディアにより、段ボールで本棚を作ったりもしました。

実技を練習する機会が少なく、机上の勉強が中心となっている看護学生や新人看護師に対して注射法、新生児看護等の実技を伴う講習会を開催。また同県内で活動していた他ボランティアと協力し、心肺蘇生法の講習会を医療関係者、警察官、消防士など地域も含め行ってきました。

また小学校、中高校を衛生教育や性教育のために訪問したり、地域住民に対して講話を行い、ラジオ番組で健康番組も行いました。私が中心となり教材を準備して、パラグアイ人のスタッフに実際に話してもらうといった形をとっていました。

活動においてはパラグアイ看護師を中心人物として、私は補助的役割に務めました。個々の能力向上につなげるとともに、彼ら自身にファシリテーターとしての役割を身につけてもらうためです。物品だけでなく技術面での協力、持続可能な援助が国際協力の中で重要視されており、現地の人達だけでも継続していけるような援助方法が求められています。ブエナビスタ市を離れるときは、一緒に作った教材や看護学の資料をスクラップブックと電子データにまとめ、保健センターに置いてきました。

大きな医療システムや風土に根付いた考え方を変えることは難しいですが、改善が可能な部分を共に考え援助を行う事が大切だと学びました。2年間で私が行えたことは少ないですが、実際に一緒に活動してきた看護師たちが学び感じてくれた事が、彼らの成長につながっていくことを期待しています。私自身も異文化の中で生活し看護師として活動する事で、視野が広がり大きく成長させてもらった2年間でした。